はじめに

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 僕は、早稲田大学理工学部電子通信学科を中退している。一浪した大学受験で主な所では横浜国立大学と早稲田大学に合格した。学費の安い横浜国立大学ではなく早稲田大学を選んだのは、早稲田大学の方が、向上心に燃えた人材が多く集まるのではないかという期待も大分あった。その中で揉まれたいと思っていた。しかし、入学してみると、僕がそういう人間だと思った人材は、大学に真面目に通ってこなかった。

 今だから白状すると、僕は早稲田の入試問題の数学の証明問題でズルをした。最初と最後を書いて間は抜けているのである。僕はこのズルで合格したとずっと引っ掛かっていたのだが、最近、化学の問題で、答えがシクロヘキサンになる問題があったのだが、これを正解した人間が非常に少なく、いわば一芸入試のような形で入学できたのではと思い直している。実は化学は満点だったのではと思っている。

 早稲田の授業、主に数学の授業だが、授業で演習をやるのでは無く、説明が主だったのには閉口した。高校の数学の授業は、演習中心で非常に為になった。この辺は大学よりも高校の方が優れていたと思う。まあ、大学生は自分で勉強しろという事だと思うのだが、通学に片道2時間かけていた僕にとっては非常に辛かった。

 プログラミング演習は、僕にとっては非常に役に立った授業となった。現在僕はプログラマーとして働いている。授業は楽しく、教科書の先の方まで自主的に読んでいた。レポートの課題で逆ポーランド記法が出た時は、授業では再起をまだ習っていなかったのだが、自主的に勉強して再起の事は知っていたので、括弧が出て来た時点で再起を使えば上手くいくという当てがあったので、括弧の事は脇に置いておいて考えていたら、同級生が「括弧はどうするんだ」というので、まだ完全に出来るか判らなかったので「何とかなるよ」と言ってお茶を濁してやっていたら程なく完成した。この課題は中々難しく、完成させる事が出来た人間は非常に少なかったようで、僕のバージョンが結構レポートで出回った。ある人から、順ポーランド記法を作って欲しいという依頼を受けたのだが、僕は喜んで作ってあげた。頼んだ人間からしたら、お人良しの馬鹿がいるとでも思ったかも知れないが、僕は良い成績を取る為に大学に通っていたのでは無く、実力を付ける為に通っているという意識が強かったので、その課題に挑戦した。今から思えば、その人の成長の邪魔をした事になるのだろうが、大学生は自分の責任で勉強をするのであり、僕は僕の成長を考えていたので、これで良いのだと思う。

 僕は実は躁鬱病である。躁鬱は大抵、鬱から始まるらしい。大学3年の時に朝起きられなくなり、大抵1限目に出られなくなった。電子回路の授業が1限目にあったのだが、ここで出られた時に黒板に書かれた回路ではカウンタにならない事を発見したのだが、その場で質問するのではなく、授業が終わってから質問すると、何でその場で言ってくれなかったのだと言われた。確かにそうで、今の僕ならそれが出来るが当時は出来なかった。ただ、その間違いに殆どの人が気付かないのに驚いた。電子回路の授業にはあまり出られなかったのだが、試験では結構良い成績だったと思う。結構出来た。他に経営学の授業でも、論文のような試験で、授業には殆ど出ていないが、これが結構出来た為に良い成績だった。後に研究室で同じになる人物が、授業にちゃんと出ていたのに成績が悪かったと文句を言っていたが、授業にちゃんと出ても自分の身に付いていないようでは駄目だと思う。

 そして、4年に進む事になり、研究室を選ぶ段階になったが、先程の電子回路の教授の研究室、音響の高齢の有名な教授の研究室(成績制限があり、僕の成績では駄目だった)、そして本学の学長になられる予定の村岡教授の研究室と迷った。実は大学3年で村岡教授の講義を受けなかったので村岡教授の事は存じあげなかった。しかし、鳥類図鑑を作るというプロジェクトに大いに魅かれた。僕は電子書籍に関心があった。これは後の事になるが、電子書籍の老舗のボイジャーという会社をずっと追いかけている。先輩にデモを見せて欲しいと言った時に嫌々だったのが引っ掛かったが、やりたい事をやるべきと思ったのと、入学以来ずっとつるんでいた二人も同じ研究室に入るという事で、村岡研に入る事にした。研究室に入るとMITのメディアラボの『マン・マシンインターフェイス』という本を読まされ、これの感想を書くようにと言われた。僕としては、この『マン・マシンインターフェイス』を読んだことがその後の僕の発明に大きく作用したと思っており、非常に感謝している。感想文も研究室の修士課程の先輩に褒められた。研究室にはSUN3やSUN4のマシン、Macintosh等があった。後にX68000、MacのLC630を所有する事になる僕にとっては大学時代非常に高価なマシンに積まれていたモトローラのCPUを積んだマシンを使えるようになった事は非常な喜びだった。X68000ではアセンブラプログラミングも行った。研究室の最初のマシンを使うに当たってのUNIXの説明に、鬱が酷くて参加できなかった。今から思うと、これが運命の分かれ道だった(最近まで悪い方に来たと思っていたが、今はよくよく考えると幸せな方に来たと思っている)。プロセスを殺す命令が怖くて使えなかった僕は、SUN3やSUN4のマシンを自由自在に操れなかった。研究室時代の仲間がインターネットの前身について非常に面白いと言っているのを感じ取ることが出来ず、非常な劣等感を覚えた。つるんでいた内の一人は僕を非常に自分の思い通りに動く人間(言ってみれば我儘な人間)と思っていたようだが、僕は自分を大切にしていただけだというのが僕の主張だ。鳥類図鑑の役割分担で、僕が一番最下層のデータベースの基本部分を引き受けたのを非常に意外がっていた。僕としては、自分に実力がつけば良いと思っていたので、一番難しそうなのでもいいやと思ったのも結構ある。しかし、博士課程の方が書いた論文を何度も何度も読むのだが、何度読んでも理解できない。これではとても作れないと非常に憂鬱になった。そして、何か発表しなくてはいけないという時になって、僕は非常に内容の無い発表をした。すると、もう一度という事になった。しかし、何を発表して良いか解らず、また当時は(今も?)プレゼンが非常に苦手で、とても緊張してあがってしまう性格だった。発表の日、休んだ。するともう大学には殆ど行けなくなった。研究室の先輩や村岡教授が心配して電話を下さったのだが、結局殆ど行けなかった。村岡教授は、僕の就職先をいくつか提示して下さった。実はこの時、既にパイオニア(実は先程のボイジャーはパイオニアにいたチームが作ったものだ。パイオニア、ボイジャー、いずれもアメリカの惑星探査機の名前だ)に内定をもらっていたのだが、卒業できないとなると受け入れられないとの事だった。しかし、卒業するまで待っても良いという有難い言葉を貰っていた。ただ、僕としては、社会に出るのはまだ早いという意識もあった。社会に出ると仕事に追われ、自分がしたい勉強がもう出来ないという意識があった。僕は浪人中に『生徒諸君!』という少女漫画を読んでおり、そこに出てくる岩崎に憧れ、岩崎みたいな人間になるのだと強く思っていた。そして、社会人になる前に、色々な事を吸収しておきたいという意識があった。僕は電子通信科だったが、実は物理よりも化学が好きで、有機化学を本格的に勉強したいというのもあったし、他にも学びたい事が色々あった。父親を見ていて、就職してしまったら、とてもではないが、勉強出来ないという焦りがあった。結局中退して時間は出来、有機化学等の分厚い教科書も買ったのだが、殆ど自力では勉強出来なかった。話しを戻して、パイオニアが待ってくれるという事だったので、留年してもう一年村岡研でやる事になった。今度は村岡研の2大プロジェクトの鳥類図鑑と並列処理の内の並列処理の方のプロジェクトに入る事になった(他に人工知能があり、ここに行った唯一の同級生は現在NECで活躍している。フェイスブックで繋がっているが息子さんが逞しく色々な知識を吸収していて将来が楽しみだ)。僕はことごとく詳細な研究テーマの選択を誤っており(今から思うと全然誤って無いが)、確か行列計算を並列コンピュータで効率良く処理するという、思い付けば上手くいくが、思いつかなかったらドツボにはまるという研究テーマを仕方なく選んだ。このプロジェクトには修士課程に、大学4年の時にGRAPEという並列処理を視覚的に記述する言語を開発した方もいらして、このGRAPEを使って並列処理を記述する作業は楽しく、良い経験になった。研究室にはマルチCPUのマシンもあって、このマシンで実際プログラミングをした経験も良かったと思う。途中の発表の前日、行列計算アルゴリズムの一つの説明を同級生にしたら、良く解っている凄いねと言われたのだが、それは発表する話題には出来ない種類の話しだったので、何を話すかという所に引っ掛かって、また発表をサボってしまった。こうなると、もう大学には行けず、結局中退となった。しかし、考えてみると、鳥類図鑑プロジェクト(マルチメディアデータベースプロジェクト)、並列処理プロジェクトという村岡研の二大看板を両方とも経験した唯一の人材?という事になり、これで東京通信大学に入れたら、村岡先生の一番弟子を名乗っても良いのでは等と勝手に思っている。

 大学中退後は、塾のアルバイトをしてしばらく過ごしたが、この時X68000に触れ、いろいろプログラムを作った。そして僕の大発明「キーグリップ」を思いついた。大学の事は最近まで悪い思い出で、あまり思い出したくなかった。30歳までに正社員になろうと思って29歳で正社員のプログラマーとして働き出した。それ以降は躁鬱病で入院した時期や、会社を辞めてぶらぶらした時期もあったが、基本的にプログラマーとして働いている。「キーグリップ」は特許出願した。ある時、村岡研の住所録が手に入ったので、村岡先生にようやく卒論が書けましたと添えて、「キーグリップ」の論文をお送りした。村岡先生からは返事が来て、障害者向けなどに考えたらどうだろうという言葉を頂いた。それからしばらくして並列処理プロジェクトのリーダーで当時は博士課程で現在早稲田の教授になっている方の研究室にお邪魔して、キーグリップに関連するアイデアを話した。その教授から去年、村岡研のOB・OG会があるとの情報を聞き、参加して、アイデアをまとめた新しい論文をやっと書けた僕の卒業論文ですと言って村岡先生に直接手渡せた。村岡先生からは次の日、メールを頂いて励まされた。OB・OG会で、村岡先生が新しい大学を創るつもりだ、詳しい事を話せるようになったら伝えるとの事だった。失礼な話だが、僕は今までと同じような新しい大学を作るだけだと思っていた。そして先日、大学時代の同級生がフェイスブックに村岡先生が創る大学を紹介した。それがこの東京通信大学だ。僕は、教育は非常に重要と考えていて、自分が考える新しい大学というものがあって、いつかそれを創るのが夢だった。東京通信大学の情報を公式ホームページで見ていて、僕は段々ワクワクして来た。僕が創りたかった大学を、もう村岡先生が創って下さった。いや、僕の創ろうとしていた学校は学士の資格は取れない。しかし、この東京通信大学は学士の資格が取れる。僕は僕の創りたかった大学で教わる事は出来ないと考えていた。それが、教わる事が出来る。しかもその大学を創ったのが他でもない村岡先生だとは(もちろん、合格しない事には始まらないが)。ここで、僕が大学を中退して学士の資格が無いのが逆に幸いしていると思う。これで一つモチベーションが上がった。フェイスブックに情報が上がったのが10月30日。AO入試の出願期限が10月31日。10月31日に問い合わせるとAO入試に落ちたら終わりではなく、推薦入試、一般入試と重複して受けられるとの事。チャンスは多い方が良いと思い、高校に卒業証明書を取りに行って、帰って来た足でコクーンタワーへ。何とかAO入試を受けられる事になった。

 AO入試に失敗しても次があるのだが、どうせなら早めに決まった方が良い。そこで、AO入試で推薦入試に必要な推薦文も書いて行ってポイントを稼ごうと思っていたのだが、どうせなら応援ホームページを作ったらどうかと思って、このホームページを創った。東京通信大学のホームページにはシラバスというページがあるのだが、このページの転載は出来ないので、各科目の自分なりのコメント、参考書の感想文等を載せて行こうと思っている。僕の苦手なプレゼンテーションの講義等、恐らく僕にとって非常に参考になるだろう。他に倫理の講義等も目に付いた。

 幕末に勝海舟が創った海軍操練所で坂本龍馬が育った。僕は坂本龍馬のように若死にはしないつもりだが(既に若くないという話もある)、勝海舟と坂本龍馬の関係が村岡先生と僕のようになるのではないかという予想がある。もし僕が東京通信大学に入学出来たら、大学生の中の年長者として、若手を引っ張っていけたらと思っている。この新しい大学に注目する人材には、凄い人材が沢山いるのではないかとワクワクしている。インターネットでの授業で、横の繋がりは少ないが、将来ここに集った仲間が貴重な人脈になる事は間違いないと予想している。卒業論文は必修ではないが、僕の卒論は「キーグリップ」を昇華させた「かむ計画」にするつもりだ。といっても卒論では調査をする必要があるようなので、このままでは卒論には出来ない。

2017年11月8日(水) 田部井保

 

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