田部井荘舟

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 僕とコンピュータの出会いは、カシオのポケコンPB100からだ。このポケコンを父親から強引に貰い受け、説明本にあるゲームプログラムを打ち込んでゲームをしたのが始まりだ。ゲームプログラムを打ち込んでいると、この辺を変えたらこうなるんじゃないかというのがあって、やって見ると、いろいろ変更出来る。技術家庭で作るような作品とは違い、何度も変えることが出来て、しかもただというのが自分の性にあっていたのだと思う。それからプログラミングにはまった。いつの事か正確には判らないのだが、確か中学3年生位の時だったと思う。

 高校時代もポケコンによるプログラミングは続けていた。高校の物理の授業中にもプログラミングをしていて、先生に指されて、しどろもどろになった事がある。ただ、社会人になってから物理屋は意外とプログラミングは苦手で、有機化学をやっている人はプログラミングに向いているという事をある人から聞いて、自分は有機化学が好きで、物理の時間には内職でプログラミングをやっていたのはプログラマーに特性があったのかなと思う事があった。今から思うと、プログラマーになる為に、効率良く高校の授業を受けていたと思います。高校の物理の授業中は、ゴルフゲームを作っていました。これが僕のポケコンでの代表作品で、良くあるゴルフゲームのように、ゲージが0からフル、フルから0へと動く途中でボタンを離すと、そのゲージの位置で飛距離が決まるといったゲームです。障害物として、木や池やバンカーがありました。このゲームは初期容量の512ステップでは足りず、拡張メモリの1024ステップ(だったと思う)を追加して作りました。同じ変数を別の所で何度も使う等、今のプログラミングの常識では考えられない作法で、少ないメモリをカバーしていました。如何にメモリを節約するかというのが課題で、節約するのが快感でした。これは自分でもとても良く出来ていると思っていて、雑誌に投稿していたら採用されていたと思います。何度も改良し、画面上でプログラムを作るのは難しいので、ルーズリーフノートにまずプログラムを書いて、それをポケコンに打ち込むという事をしていました。他にポーカーゲーム(相手なし、自分だけで役を作る)、パチンコゲーム、デジタルインベーダーゲーム(数字が攻めてきて、先頭の数字を順に消していく、確か数字は0から9で順に増える、9までいったら0に戻るで、数字を合わせて消していくゲームだったと思う)等のゲームを作りました。

 大学時代は、授業でTurbo Pascalを習いました。パソコンは日本IBMの5560です。この授業はとても熱心に聞き、教科書も予習をする程で、逆ポーランド記法の出力をするという課題では、まだ習っていない再帰処理を使い、括弧に対応するといった事までしました。これに味をしめて、再帰を使いたくなるのですが、再帰はプログラマが好む処理で、使いすぎて失敗する事があるとの事なので、これからは注意したいです。大学1年の時だったと思うのですが、食堂に10万円で中古のPC9801とモニタと5インチのフロッピーディスクドライブと書籍沢山をセットにして販売するという先輩のちらしが置いてありました。僕はPC9801とモニタだけで5万円ではと交渉したのですが、どうしても全部セットでという事だったので、10万円で購入しました。当時の10万円はバイトもしていなかったので、とても決心がいったのですが、今から思うと、全部セットで10万円で買って良かったです。書籍がとても参考になりました。このパソコンで、Turbo Pascalでプログラムを作りました。8086のアセンブラも使用しました。この時先輩から購入した書籍がとても役に立ちました。光栄の三国志の武将データを解析して、武将パラメータを書き換えたりするツールを作りました。顔データも出せるようにしました。この顔データの表示にアセンブラが威力を発揮しました。

 大学の後、地元で塾講師のアルバイトをしていました。PC9801の新しいものも欲しかったのですが、高く、こちらも安くはなかったのですが、いろいろ出来そうなX68000を購入しました。X68000SUPER HDです。X68000では初めてハードディスクを最初から搭載した機種で、80MBありました。メガバイトです。それでも高かったです。68000というCPUに興味があったのと、グラフィック性能を試してみたいというのがありました。PC9801が640×400ドット、8色なのに対し、X68000は、1024×768ドット、16色、あるいは、512×512ドット、65536色表示出来たと思います。他にゲームに便利なスプライトという機能もX68000には付いていました。ただ買ってから判ったのですが、512×512の場合、正方形ではなく長方形で、つぶれた形になってしまうという事がありました。それから普通のDOSタイプのOSとSX-Windowという、NeXT STEPのような格好良いグラフィカルOSがありました。SX-Windowも結構触って見たいと思っていたのですが、SX-Windowの開発キットが出る頃には、あまりX68000を触らなくなってしまっていました。CPUのインテル8086、モトローラ68000、共に16ビットCPUという事になっています。8086はレジスタは16ビット、アドレスバスは20ビットで、1MBのメモリを扱えました。レジスタが16ビットしかないのに、どうやって20ビットに対応するかと言うと、セグメントレジスタという4つのレジスタがあり、それが上位16ビットを指定し、一般のレジスタが下位16ビットをしていし、中間の12ビットは重なるという方法を取っていました。このため16ビット(64キロバイト)を超えるアドレスの移動は面倒くさかったのです。それに対し、68000は、レジスタが32ビットありました。アドレスバスも24(23)ビットあって、16MBのメモリを扱えました。レジスタが32ビットあるので、セグメントレジスタは必要ありませんでした。68000は32ビットCPUと言ってもおかしくありませんでした。インテルは80386SXでようやく、68000と同等のCPUを作ったと言えます(クロック数等は違いますが)。

 この辺でもう少し、PC9801について。僕の買った初代9801は、640×400、8色でしたが、以降の機種では、16色となっていました。それからグラフィックVRAM(画像表示用メモリ)が2バンクになりました。2バンクだとどういう事が出来るかと言うと、片方を表示しながら、もう片方に描画し、それを切り替える事によって、滑らかな表示が出来ます。実際、これは後の話になりますが、平塚市博物館で天文関係の特別展「太陽活動を探る」では、この2バンク書き込みを使った展示を行いました。このような仕様が追加された為、初代98では動かないゲームソフトが増えて行きました。グラフィックVRAMの他にテキストVRAMというのもありました。最近のDOS/Vマシンでは、昔の98のグラフィックVRAMだけがあり、文字をグラフィックとして描くのですが、テキストVRAMは、この領域に文字コードを書いておくと、ハードウエアが画面上に文字として表示してくれるというものです。この為、昔の低速なマシンでも文字表示が速くなるという特徴があります。時代が下って、マシンが高速になり、テキストVRAMがなくても高速にグラフィックVRAMに文字を描けるようになった為、DOS/Vマシンの時代が来たのです。ただ、テキストVRAMでは文字の表示位置が決まってしまいます。それから、漢字の字形情報を保持した漢字ROMというものもあるのですが、初代98では、これが別売で、後ろに挿す構造となっています。しかもJIS第1水準の漢字しか入っていません。僕が買った時には、すでに付いていましたので、先輩が買われたのですが、今思うとこれだけのものを10万円で下さった先輩に感謝しないといけないと思います。やはり関連する本を沢山付けて下さったのが後々役に立ちました。メインメモリに関しては、グラフィックVRAMやテキストVRAM等の領域を除いた、1MB中の640KBが割り当てられていました。最初128KB+拡張128KBが付いていたと思うのですが、途中から128KBを取り外して、512KBを付けました。先輩は拡張バスに、漢字ROMと拡張メモリ128KBも付けていて下さったものを10万円で、これ以外もつけて譲って下さったのです。

 X68000でも、光栄の「三国志」や「信長の野望」の武将パラメータ書き換えツールや、顔表示ツールを作りました。画像データの圧縮、解凍方式をデータから解析して、復元するという事までやりました。これは違法だとおもうのですが、時効という事で。今から思うと、良くそんな事が出来たなと思います。顔データ表示ツールですが、やはりC言語では遅かったので、アセンブラで表示部分を作りました。とても高速になりました。ここで、68000のアセンブラに触れるのですが、68000のなんと美しい事。8086は汚すぎます。8086では、セグメントレジスタというものがあるというだけでユーザーに負担を強いるのですが、8086のレジスタで、この処理をやる時は、このレジスタと、レジスタにより出来る事が決まっていました。それに対し68000では、データ用とアドレス用に分かれていて、データを扱う場合はデータ用のどれでも同じように使え、アドレスを扱う場合もアドレス用のどれでも同じように使えました。大学時代の部分で書き忘れたのですが、研究室にはSUN3、SUN4がありました。SUN3は68030だったと思います。68000シリーズがCPUの主流となっていたら、現在のパソコンソフトのレベルがもう少し上がっていたのではと思います。

 その後、平塚市博物館とお付き合いするようになりました。スイフトタットルという彗星(夏のペルセウス座流星群の母彗星)を見ようとして、平塚市博物館に行ったのです。天文の特別展で、パソコンを使った展示のお手伝いをする事になりました。PC9801の所で前に書いた、2バンクを使ったプログラムは、この時作りました。太陽の磁気の巻きついていく様子をアニメーションしたものです。片方のバンクに書き込み、書き終わったら表示を切り替えるというプログラムを作りました。この他に、博物館にビデオディスクというものがあり、一コマ一コマ映像を記録して、後で通して映像を見られるものがありました。何と言う名前のディスクか忘れてしまったので後で確認して載せたいと思っていますが、一般で目にするものではなく、特殊用途で、1994年という早い時期なので、相当な値段がかかったと思います。これに、学芸員の方が毎日撮影している太陽の黒点写真を、その時の緯度経度の線を引いた網をかぶせ、一コマ一コマ記録するという作業もしました。日付によって、緯度経度の網を表示するプログラムも作りました。間違えると、映像が乱れるので、とても慎重に作業したと思います。他にMacintoshでハイパーカードを使った展示もやって見たらという事で、やらせてもらいました。当時平塚市博物館にはCentris650とColorClassicがありました。この時はColorClassicを展示に使えました。ハイパーカードは、それまで僕が使っていたプログラミング言語とは大分趣が異なり、とても楽しい思いをしました。この時のものは実験的要素が強く、あまり満足のいくものは作れませんでしたが、次の生物関連の特別展「鳥類画家小林重三」展では、スケッチブックの内容をイメージスキャナで取りこみ展示するという仕組みとしては単純なものでしたが、スケッチブックを手に取って見てもらう訳にはいかず、見開き2ページしか見られない所を、他のページも見られるようにしたという中々意義のある展示が出来たと思っています。この時は確かCentris650を使ったと思います。

 平塚市博物館でMacを使った展示を天文分野で初めてした時に、MacWorldExpoのチケットを学芸員の方に頂き、MacWorldExpoに行って来ました。1994年の事です。ここでは、日本ボイジャーのブースにへばりつき、いろいろ見て来ました。「Expanded Book ToolKit」の日本版も買いました。ボイジャーのブースで知ったあるプロジェクトに参加する事になりました。カナダ人の方が中国からシベリア鉄道を使ってヨーロッパに抜ける様子をビデオカメラで撮影しており、それを元に、日本語と英語の「Expanded Book」を作るというプロジェクトでした。そのチームの方のオフィスにお邪魔をして作業しました。僕はハイパーカードでのプログラミングを担当しました。そこにはQuadra840AVがあったと思います。ビデオキャプチャボードは最初から付いています。ここで動画編集ソフトのAdobeのPremiereを触ります。それからビデオカメラの威力を思い知りました。ここでの経験から後にビデオカメラ購入に踏み切りました。動画圧縮は当時は非常に時間のかかる作業で、Cinepackという、結構コンパクトながら綺麗な圧縮形式で、もう詳しくは忘れてしまったのですが、10分のビデオを圧縮するのに24時間かかるという様な具合だったと思います。Quadra840AVは、当時のMacの最高峰です。今なら2時間のビデオを圧縮するのに1時間もかからないと思います(2012年)。それも結構綺麗な圧縮形式で。良い時代になったものです。このオフィスでバイトのような事もやり、PowerBook 100でエクセルを使って作業しました。オフィスの代表の方は、アイデアプロセッサ、「インスピレーション」というソフトを使っていらしたのを覚えているのですが、その詳細は知ること無く終わりました。

 1994年は更に、考古の特別展でもMacintoshを使ったプログラムを作りました。この時のものは、展示したものを写真に収めていたので、それをMacで見られるようにしただけのものでした。展示を見られるのであまり意味のない展示となってしまいましたが、Next Step風に銀色を使い、格好良く仕上げました。当時は意味無かったけれど、現在は結構意味あるものになっているとは思うのですが、肝心のデータがどこにあるのか判りません。1995年は活動しなかったのですが、1996年の「博物館開館20周年記念特別展」では、企画書のようなものを作り、博物館に持ち込むと、ぜひやろうという事になり、Macでパソコン展示をする事になりました。この前年だったと思うのですが、LC630を購入していました。モトローラの68040を搭載した最後のMacintoshです。68040というと大学時代のSUN3の68030より上のCPUです。ただ、LC630の68040はコプロが載っていないタイプです。型番は忘れましたが、コプロありと無しで型番が違いました。LC630を10万円以下で買いました。それからNECのPC9821Xe9を買いました。Windows95がついて10万円しなかったです。博物館の話に戻って、LC630を購入していたので、「20周年記念特別展」のパソコン作品を作る作業は自宅でやりました。それから1996年にはビデオカメラSimpleHi8を購入し、いろいろな行事を撮影し始めました。アクセサリと合わせて4万でしたが、これを買うのにとても迷いました。結果的には、買ってとても良かったです。LC630には、ビデオキャプチャボードを追加し、更にMotionJPEGハードウェア圧縮ボードも追加しました。ビデオキャプチャボードが3万、MotionJPEGボードが5万したと思います。他に1GBのハードディスクを5万で購入しました。これにより、博物館の行事を撮影したビデオをMacに取り込めるようになりました。「開館20周年記念特別展」では、動画はあまり使いませんでしたが、静止画も動画から切り出したものも使いました。それ以降の「博物館まつり」等の展示では、動画をふんだんに使いました。「開館20周年記念特別展」のパソコン展示は、僕が作った中でも最高の出来だと思っています。1999年には、この時のコンテンツを元にして、「平塚市博物館応援ページ」を立ち上げました。MotionJPEGボードは、当時時間のかかるビデオ圧縮をハードウェアでやるもので、リアルタイムで圧縮出来ます。MotionJPEGはMPEGやCinepackと比べると圧縮率が低いのですが、とても綺麗です。ただ当時はハードディスクの容量が小さ過ぎました。後にLC630のハードディスクを30GBのIDEハードディスクに換装するのですが、これでようやくビデオをふんだんに扱えるようになりました。LC630は当時SCSIが普通だったMacintosh中にあって、内臓ハードディスクはIDEでした。この為、安くて大容量のハードディスクに気軽に換装出来るようになりました。

 1996年は、平塚市博物館で木谷實さんの特別展がありました。この時は、MacintoshではなくてWindowsマシンで、木谷實さんと他の方の囲碁の対局を再現したソフトを作りました。自動的にスライダーで指定した時間間隔で、石を置いたり、片方の方だけ自動にして、もう片方の方がどこに石を置いたかを推理したり出来るようにしました。この展示は囲碁好きな方に大変人気があったとの事です。この時は、プログラミング言語としてDelphiを使いました。TurboPascalがWindows用に進化したものです。この時は、あまりWindowsプログラミングの知識がなく、今から思うと、結構おかしな事をやっていたのですが、トラブルも無く済んだようです。この年は他に地質の特別展のお手伝いをしたと記憶しているのですが、そちらは、あまり満足いくものが出来ませんでした。1996年もMacWorldExpoに行きました。この時はボイジャーブースで、『LuLu』という、とても美しい電子本を見て購入しました。今でも、沢山の人に受ける内容だと思います。

 1998年もMacWorldExpoに行きました。この時は、ボイジャーのブースで『本の未来』とT-Timeを購入しました。T-Timeについては、この後、パブリッシャーキットを買ってから本格的に使うようになります。縦書きで読めるリーダーです。『本の未来』については感銘を受け、著者の富田倫生さんに手紙を送り、返事を頂き感動するのですが、その後の「青空文庫」の活動に関する事で、とても失望します。1999年の後半に「平塚市博物館応援ページ」を立ち上げます。本家の「平塚市博物館」のホームページより先に立ち上げる事が出来ました。ここでは、まず「博物館開館20周年記念特別展」で使ったデータを元に立ち上げました。そして、SimpleHi8で撮影したものからテープ起こしをして、載せていくという作業を始めました。LC630で取り込んだビデオをWindowsマシンに送り、WindowsマシンのMSOfficeファミリーのFrontPage2000でホームページに仕立てました。転送には、Macのソフトを使いました。名前を忘れてしまったので、後で調べて載せようと思います。この時のWindowsマシンは、自作のマシンだった筈です。CPUはPentiumVの500MHzで、チップセットにVIA Apollo Pro 133Aというチップセットを装備したマザーボードを使いました。Intelがチップセットi820に手こずっていた時に、いろいろな新技術をサポートしたチップセットでした。最初i820を載せたマザーボードにしようと思っていたのですが、i820がどうもおかしく、スペック的に有利に見えたApollo Pro 133Aを使う事にしました。このチップセットはNECのバーチャルチャネルSDRAMという新機軸のメモリーをサポートしていて、折角なので、そのメモリーを使いました。ただ高かったです。OSは最初Windows98SEだったのですが、Windows2000も導入しました。デュアルブートにしました。結構不安定で、良く落ちました。

 2000年の初めに平塚市博物館で「博物館まつり」が開かれます。これは、博物館に所属する会が特別展示室で活動内容の紹介をする文化祭のようなものです。僕は、これにパソコンを出したいと申し出て受け入れられます。ここには、パソコン数台を導入する事にしました。そこで、中古で1万円になっていたLC630を2台購入し、いろいろ整備して展示する事にしました。これは、「平塚市博物館応援ページ」の行事編をMacのハイパーカード版にしたようなものです。容量があった為(30GBに換装していた為)、動画もふんだんに取り入れました。導入する前の日はほぼ徹夜をしました。導入した日には「博物館まつり発表会」があったので、これのビデオ撮影もするのですが、徹夜明けでフラフラしていました。「博物館まつり」に導入した作品、結構良いものが出来たと思っております。ただ、もっと時間があればいろいろ充実させる事が出来ました。これ以降「博物館まつり」には何回か参加するのですが、最近はあまり参加できていません。

 2000年の春に、2代目のビデオカメラとなるシャープの液晶ビューカムを買いました。SimpleHi8の調子が悪くなっていたのと、ある人の為にビデオカメラを購入するのですが、そのカメラを僕も欲しくなってしまったので購入しました。確かバッテリーも入れて8万円位だったと記憶しています。その頃には、ビデオカメラの重要性を認識していたのと、金銭的にも余裕が出来ていたので、購入する事が出来ました。ただ、このカメラはワイドコンバージョンレンズが最初から付属しているタイプなのですが、これが付いていない機種より安く売っていたので、結構な掘り出し物だったと思います。8mmビデオではなくDVです。このカメラでこれ以降、相当な時間、平塚市博物館の行事を撮影します。8mmビデオより画質がとても良いのですが、テープ1本に撮れる時間が2時間から1時間に減ってしまったのが残念な点でした。撮影したビデオ、「平塚市博物館応援ページ」のテープ起こしに使うのと、ある人の為にVHSにダビングして渡す事位しか当初はしていませんでしたが、最近になってパソコンに取り込み、DVDに仕立て上げるという作業をするようになりました。これについては、また改めて書こうと思います。

 


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